2018年11月24日土曜日

『とっておきの休日』詩月あき

 長崎の観光スポット「眼鏡橋」に行くには、電停の「市民会館」か「めがね橋」のどちらかの停留場で降りると近い。しかしこの絵のロケハンをしたときは、この「めがね橋」停留場の名前は「賑橋」だった。だから、絵の中でも以前の電停の名前を入れてみた。その方がノスタルジックな感じもするし。名称変更は2018年8月1日からだったらしい。ちなみに「市民会館」停留場も、私が行ったときは「公会堂前」だった。
 画材はペン、マジック、透明水彩で、大きさはB3判です。長崎をよく知る人は、この絵の風景が実際とはかなり異なることにお気づきになるかもしれない。建物群のみならず、太陽がこの位置にあることはあり得ない、とか。でも私はこの停留場を描きたかったのではなく、この女性がこの電車に乗って向かう未来のことを描きたかったので、実際と違ったっていいじゃないですか。

『巖茶大紅袍(2015?)』遊茶

 がんちゃだいこうほう。「岩茶」とも。中国福建省武夷山でとれる青茶(烏龍茶)のうち、規格で認められたお茶は武夷巌(岩)茶を名乗ることができるだけれど、その中で特に優れたものを四大名欉(そう)と呼ばれたりする。大紅袍はそのうちの筆頭といわれるもので、他の3つは鉄羅漢、水金亀、白鶏冠である。樹齢400(300年?)もの母樹は4本しかないらしく、出回っている多くのものは第2、第3世代のものだという。だからきっと今飲んでるこのお茶も、原木ではないはずだ。
 甘くてどっしりとした岩韻がしっかりと出ていて、とてもおいしい。もう10年以上も前のことだったと思うけれど、今は閉店してしまったとあるお茶の専門店で飲ませてもらって以来、中国茶の中ではこの大紅袍が一番好きなお茶だ。値が張るのでふだんはなかなか飲めないのだけれど、昨年の年末年初福袋に入っていて、小躍りしてしまった。でも飲むのがもったいなくて、封を開けるのがこんな時期までかかってしまったというわけだ。
 同じ大紅袍でも店によってかなり値段が異なるので、もしかすると質は違うかもしれない。でもこの遊茶の大紅袍は間違いなくおいしいと思う。

遊茶』東京都渋谷区神宮前 5-8-5

2018年11月23日金曜日

『かんがえる子ども』安野 光雅

 福音館書店。
 言わずと知れた画家の安野光雅によるエッセイ。はじめ、これが子供に向けた本なのか大人に向けた本なのかよくわからなかった。でもそんなことはどうでもいいんだということが、すぐにわかった。漢字にはふりがなが振っていないけれど、誰にでも読んでもらいたいと思った。
 子供の立場から見た世界、そして大人から見た世界とをくらべると、こんな違いがあるんじゃないか。大人は子供に対してこうやって接した方がいいんじゃないか。考えるということはどういうことだろう。今、自分で考えない人が増えていやしないか。学ぶってどういうことなんだろう。
 そんないろんなことを、やさしい言葉で読者に問いかける。決して押しつけではないけれど、著者の素朴な、また真摯な生き方、考え方が伝わってくる。そうだからこそ、あんな素敵な絵を描けるのかな、と思ったりもする。画家の絵にも人間性にも惹かれます。

2018年11月20日火曜日

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル

 講談社選書メチエ。清水一浩 訳。
 世界は存在しない。しかしそれ以外のあらゆるものが存在する。これが著者の主張である。おそらくこのブログ記事を読んでいる人は、わけがわからないと思うにちがいない。簡単にロジックをまとめるとこんな感じになる。
 「世界とは、物の総体でも事実の総体でもなく、存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域のこと」だ。ハイデガーの言葉を借りれば、世界とは「すべての領域の領域」(著者は世界のこの定義を後に「意味」という言葉を使って多少アップデートしているが、ここでの議論にはあまり影響しないので、大体こんなことだと思っていても問題はない。)にほかならない。だとすれば、この「世界」の中には「世界」そのものも入っていなければならない。そうすると、最初の「世界」の定義に矛盾が生じる。自分自身の中に自分自身も入っている総体って何だ?というわけだ。つまり、世界は存在しない。以上。
 著者の立場は、「新しい実在論(新実在論)」である。形而上学のような「すべてを包括する規則が存在」するという立場も、構築主義のような、それらの規則、あるいは事実を我々は確認することはできず、「解釈だけが存在する」という立場も否定する。物や事実は存在するけれども、それを包括する規則は存在しない、という立場をとる(のだと思う。きっと)。そして、自然科学や宗教、芸術などについて、新しい実在論という視点から解釈していく。
 正直なところ、私にはよくわからなかった。例えば自然数の最大値というものはうまく定義できないのかもしれないけれど、それを含む全体を指す「自然数」は存在するのではないのか。とすれば、「存在するすべての領域がそのなかに現れてくる領域」を指す「世界」もまた存在するとはいえないか。それとも著者は「自然数」という個々の数値は存在するけれども、自然数全体を指す「自然数」は存在しないというのか。またはこんな疑問も出てくる。そもそも著者のいう「世界」という言葉の定義自体が間違っているんじゃないのか、とか。う~ん、私はまだまだ哲学的思考には慣れていないようだ。訳文はこなれていてとても読みやすいのに、内容についていけない。

2018年11月17日土曜日

『My Way』Willie Nelson

 2018年。ウィリー・ネルソン。
 全編フランク・シナトラ(Frank Sinatra)のレパートリーからとられている。最初の曲が『Fly Me To the Moon』で最後の曲が『My Way』という、まさに王道の選曲。それをネルソンらしい、おじいさんが優しく語りかけてくれているかのような歌声で、カントリーチックに料理してくれている。『What Is This Thing Called Love』の1曲だけだけれど、ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)が参加している。
 もうウィリー・ネルソンは85歳にもなるそうで、この年になってもこうやって音楽をやっていけるのってすごくいいなあと、感慨深い。

2018年11月8日木曜日

『国家がなぜ家族に干渉するのか』本田由紀、伊藤公雄 編著

 青弓社。副題「法案・政策の背後にあるもの」。
 この本で述べている「国家」は、一般的な「国家」のことではなく、現代日本、特に戦後の自由民主党政権、さらには現安倍政権のことを指しているとみてよい。著者らは、ここ数年の家庭教育支援法案、親子断絶防止法案、自由民主党の憲法改正案(特に24条)、内閣府の婚活支援政策などが、日本社会の家族のあり方を大きくゆがめる方向に進めているのではないかという問題意識からシンポジウムを企画し、その内容を本書に起こした。
 この人口減少社会において、結婚、出産、教育に至るまで国家が家族をサポートしていくことや、離婚後に親権を持たない親も子供ときちんと会えるようにすることや、家族みんなで助け合って生きていこうという施策が行われることは、一見何の問題もなく、むしろ盛り上げていった方がいいんじゃないかとさえ思える。しかし、そうではない、危険なことなんだということを、彼らは読者に訴えている。
 どういうことか。ニュアンスの違いを恐れずにあえて単刀直入にいうと、今の国家は「個人」の権利を剥奪し、「家族」に責任、義務を押しつけ、「家族」を国家に組み込もうとしているのだという。乱暴にいえば、今の国家は国民に対して、国のために結婚、出産をし、生まれた子供には愛国心、郷土愛を植え付け、自助・共助によって生きていくことを強制しようとしているということだ。
 私は個人の権利はきちんと認めてほしいので、個人あっての家族だし、個人あっての国家だと思っている。しかも現代では家族のあり方は多様であり、結婚するか、シングルのままでいるかは自由だし、パートナーが男女のペアである必要性もないと思うのだ。本書で述べているように、国家は家族に「介入」するのではなく、保護し、見守ってほしい。家族のあり方を国家に強制されたくはない。そういう感想を持てたのは、本書が法案や政策等の問題点をかみ砕いて説明してくれたお陰だ。政治のことなんかどうでもいい、社会のことなんかどうでもいいなんて考えて生きていると、知らないうちに個人の自由、権利等が制限されて、身動きがとれなくなってしまうかもしれない。だから、皆がもっと政治に興味を持ち、監視していかなければならないと強く感じた。「法案・政策の背後にあるもの」をきちんと把握した上で、その法案・政策に賛成するか、反対するかは当然個人の思想の自由であるが、その前提として、政治にもっと興味を持たないと、と思う。

2018年11月6日火曜日

『Heart First』Halie Loren

 2011年。ヘイリー・ロレン。
 一応ジャズヴォーカル作品に分類されると思うのだけれど、ちょっとポップスっぽい親しみやすさがある。もしかするとそれは収録曲のせいかもしれない。オリジナルもあるけれど、ミュージカルやシャンソン、レゲエ、ラテン、ロックなど、さまざまな出自の曲であふれている。でもやっぱりジャズだなとは思う。ニール・ヤングの曲が、ジャジーに跳ねている。
 彼女の歌は肩の力を抜いて気楽に奏でているように聞こえるんだけど、その力の抜き加減が絶妙で、さりげなくファルセットをまぜてくるあたりさすがだなと思う。バックのギターやピアノ、アコーディオンもお洒落で、全体としてバランスのとれた聴きやすいアルバム。