2018年6月28日木曜日

「紅露はるか個展 Lighting」カフェ+ギャラリー・オマージュ

 2018年6月27日~7月16日。
 札幌の電車通り沿いにある雑居ビル。こんなところにギャラリーなんてあるの?といぶかりながらも中を進んでいくと、ほどなく右手にお洒落な空間が現れた。ドアを入ると右側がギャラリーになっていて左側がカフェになっている。事前にギャラリーだけの鑑賞だけでもいいと聞いていたので、遠慮しながらも右手に進む。
 都会の喧噪にありながら、それが嘘のような静寂な空気に包まれる。メルヘンと言っていいのかどうかわからないけれど、シンプルな構成の小品ばかりなのに、一瞬で絵本の中に入り込んだような気分におちいる。彼女は日本画家なのだという。私は日本画についての知識はほとんど持ち合わせてはいないのだけれど、ここにある作品すべてに共通する、フレームにガーゼを貼ったような表面の質感も、日本画と関係があるのだろうか。それともこれは彼女独自の画法なのだろうか。そんなことを考えて見ていると、いつの間にか頭の中をピアノのワルツが流れているのにハッとする。いいな。こんな絵を描けたらどんなに楽しいだろう。
 閉店ギリギリに行ったせいか、ギャラリーの中には最初から最後まで私しかいなかった。この素敵な空間をひとりっきりで満喫したあと、帰りがけにカフェの人とちょっとおしゃべりして、ビルの外に出た。家に帰ってこのカフェのことを調べてみると、あの『モンペール』が昨年リニューアルオープンしてできた店なのだという。そういえばさっき話をした女性はどこかで会ったような懐かしい感じがあった。ここのシェフは『モンペール』の前は『サラ』という店で料理を作っていたのだけれど、私はその頃からこのシェフの作る料理が好きだった。今度来るときは食事もしていこうと思う。
 最後はなんだか脱線してしまったけれど、彼女の絵には本当に癒やされる。


カフェ+ギャラリー・オマージュ』札幌市中央区南1条西5丁目16-23プレジデント松井ビル100 1F

2018年6月24日日曜日

『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 』山口 周

 光文社新書。副題『経営における「アート」と「サイエンス」』。
 タイトルにある「美意識」は、本書の中では「アート」として扱われている。そしてその「アート」とは美術のことを指すのみならず、哲学や文学などの人文系の分野を含む大きな枠として捉えている。その上で、これまで「サイエンス」と「クラフト」が中心だった経営概念に「アート」を加えて、3者のバランスをとるべきだとしている。「サイエンス」の特徴として挙げられるのは論理的、理性的であるということであるが、今の時代、この論理的・理性的な情報処理スキルが限界に来ているのだという。みなが論理や理性に沿って決断を行うと、すべての企業は同じ戦略をとることになってしまい、頭を一歩抜き出すことができなくなる。そこで、論理性は担保した上で、それで判断できないことに対しては感性や直感、つまり「アート」を重視していかなければならないとしている。そして日本はその流れに少し乗り遅れているけれど、日本の伝統的な美意識は国際的優位性があるのだから、これからはうまく「アート」の概念を取り入れることで、また世界で活躍できる企業が育つ土壌はあるのだと希望を託している。
 このような全体的な著者の結論に対してはまったく異論はない。ただ、この話は主に経営層の話なんだろうなと思った。私の身の回りを見てみても、世間の人たちを見てみても、論理的スキルがきちんと身についている人はそれほど多くはない。論理すらたどれない人が感性や直感のみに頼って行動するのは、経営としてはリスクが高すぎる。本書にしても、論理的に説明できることまで感性に訴えたり、論理で説明できないはずの感性を論理的に論じてみたりと、内容が破綻しているところがある。それほどまでに、プロにとっても論理性の担保は難しい。
 そのような些末な点はひとまず脇に置きさえすれば、上で述べたような著者の説明は十分に納得できるものだ。技術力だけが高くても製品が売れるとは限らない。また、技術は再現可能ということでもあるから、たとえ一度技術力によってトップに躍り出たとしても、他社はそれを真似することができて、すぐにコモディティ化してしまう。そうなるとそこから先はコスト競争力の世界になってしまう。そういったループに陥らないためには「美意識」つまりは「アート」で差をつけなければならない。なるほどである。

2018年6月23日土曜日

『Yoru Wo Koeru』高井息吹(Eve)

 2015年。当時「Eve」としてリリースしたファーストアルバム。2016年にアーティスト名を「Eve」から「高井息吹」に変更し、このアルバムも2017年以降、高井息吹名義で発売されている。
 ある日テレビから流れてきたトヨタのCM「流れよ、変われ。」のバックで流れていた彼女の声に、見事にはまってしまった。絞り出すような歌声はちょっぴりSalyuを思い起こさせるものの、全体の雰囲気はなんとなく青葉市子にも似たような感じもする。以前からピアノを弾いてきたようで、このアルバムでも軽やかなピアノの響きに乗って、しっかりと歌い上げる。CM曲はここには入っていないけれど、その落ち着いた感じは、アルバムに収められている「wonder land」「ゆらゆら」「掴めないもの」「フィナーレ」「透明」に通じるところがある。対して「雨雫のワルツ」「きりん座 (band ver.)」は明るくポップな感じで、当初抱いていたイメージとは全然違く曲。でもなんだかそのギャップにもちょっとときめいてしまう自分がここにいる。お気に入りのアーティストがまた増えた。

2018年6月16日土曜日

『「大学改革」という病』山口 裕之

 明石書店。副題「学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する」。
 昨今「大学改革」という言葉が新聞上を賑わすようになって久しい。ではその「大学改革」の実体とはどういうものなのか。どういう問題点があるのか。大学とはどんな存在であるべきなのか。そのような点について、本書では論じている。
 世界各国の大学の歴史を紐解き、国によって大学がどのような位置づけにあり、どのように変遷してきたのか、詳しく語られる。そしてそれらと比較することにより、日本において大学とはどういう存在であったのか、あるいはあるのかについて、入試選抜の方法や企業の就職慣行、日本の社会保障との関係を念頭に置きつつ、解読していく。
 現在「大学改革」の名の下に行われている教育予算の削減、大学間や大学内の教員に課せられている競争主義、企業活動に役立つ学問をという政財界からの要請。これらが大学における教育、研究に対してどのような弊害をもたらしているのかを明らかにし、今後、日本の大学はどうあるべきかについての処方箋を提示する。
 著者の提言はやや抽象的で理解するのは少し難しい。しかし大学改革における論点はしっかりと整理されており、個々の議論に対する著者の指摘は的を射ている。今後の大学のあり方とはつまり、今後の日本のあり方でもあり、国民生活とも切っても切れない関係にある。その大学の今後を、財界および政界任せにしておいてはいけない。そんな著者の思いが伝わってくる。

『グァテマラ・エル・ロサリオ(2018)』横井珈琲

 Guatemala El Rosario。グァテマラのエル・ロサリオ農園のコーヒー。
 苦味の強いコーヒーで、カカオ含有量の多いミルクチョコといった感じ。無理やりベリーやリンゴっぽい風味を感じると表現できないでもないけれど、フルーティーさはほとんどない。スペシャルティコーヒーといった雰囲気はあまりないものの、バランスがとれていて、よくできたブレンドっぽい感じがする。苦味が強いといってもそれはやわらかい苦味なので、喫茶店でいえば、フレンチブレンドじゃなくてマイルドブレンドとして出される類いのコーヒーなのだと思う。ただ、喫茶店で出るマイルドブレンドは、一般にこのコーヒーよりも酸味の強いものを使っていることが多いけれど。昔ながらのコーヒーのイメージに近いので、ふだん飲みには最適である。

工房 横井珈琲

2018年6月12日火曜日

『Different Stars』Trespassers William

 2003年。トレスパッサーズ・ウィリアムのセカンド・アルバム。
 ロッテ・ケストナー(Lotte Kestner)つながりでトレスパッサーズ・ウィリアムのアルバムを初めて聴いたのは、サードアルバムの『Having』だった。それは少し自分が望んでいたものとは違ったけれど、そう悪いものでもなかったので、このセカンドアルバムも聴いてみた。ちなみにロッテ・ケストナーの本名はアンナ・リン・ウィリアムズ(Anna-Lynne Williams)で、トレスパッサーズ・ウィリアムではヴォーカルやギターを担当している(バンドは2012年に解散)。
 ジャンル的にはインディーロックとかドリームポップとかいうらしいけれど、私はそういう音楽区分のことはよくわからない。ただ、このアルバムは好きだ。ロックだけれど静かでアンビエントな香りが漂う。宇宙空間に配置された星のように、空間のわりに音数のあまり多くない音楽を覆うようなアンナ・リン・ウィリアムズのつぶやくような歌声。いいな。君と僕はきっと違う星の下にいる。

2018年6月3日日曜日

『(Songs From) The Sandbox』Tessa Rose Jackson

 2013年。テッサ・ローズ・ジャクソン。オランダのシンガーソングライター。
 彼女のことは、ここ数年リリースされたニュートン・フォークナー(Newton Faulkner)のアルバムに一緒にヴォーカルとして参加していたので知った。いくぶんハスキーがかった歌声がなんだか心にとても馴染むように入ってきたので、もうちょっと彼女の歌声を聴いてみたかった。
 彼女は今のところこのアルバムしかリリースしていないようだ。自分のレーベルから出している。ややフォーク寄りのポップという感じで、80年代から90年代にかけての音楽っぽいところがあるせいか、ちょっと懐かしい感じがする。アコースティック・ギターの音とこの声はとても相性がいいように思う。なんだか手作りっぽさもあって、ほっこりと暖かい気持ちになる。次回作も聴いてみたい。

2018年6月2日土曜日

『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井 紀子

 東洋経済新報社。
 著者は、AI(人工知能、AI技術)を使って東大合格を目指す「東ロボくん」プロジェクトを運営していた数学者である。今のところ教科によっては東大合格レベルには達しているものの、全体では合格レベルには至っておらず、今後もそれは無理だろうという。国語や英語が足を引っ張っているらしい。コンピュータができることは所詮四則計算だけであり、意味を理解することができない。SiriとかAmazon echoとか、話しかけるといかにもそれらしく答えてくれる機械はあるけれど、意味を理解してそう答えているわけではないのだという。つまりAIには読解力がないのだ。そういったコンピュータの仕組みを考えると、AIの能力が人間を超えるシンギュラリティが到来することはないと、著者は断言する。だから人間を滅ぼすこともないと。とはいえ東ロボくんの偏差値は57を超え、MARCHレベルの大学に入る能力はあるのだという。これはどういうことを意味するのか。問題はここからである。
 中学、高校に通う生徒に、教科書や新聞レベルの文章を理解できるかどうかのテストを行ったところ、3分の1の生徒は理解できていないという結果が出た。教科書の内容を覚える以前に、教科書の文章が理解できないというのだ。文が読めない。つまり読解力がない。これはAIの苦手とするところと同じである。AIはこれからも発達していって、今人間が行っている仕事もAIに置き換えられていることは容易に想像できる。そのとき、AIがすべての仕事を奪うことはない。人間にしかできない仕事があるからだ。文章を読んで理解し、正しい推論をして判断するというようなことだ。しかし現状は、これらのAIの苦手とする分野を担えない人材がかなりの数存在する。つまりAIのできることしかできない人材は、今後仕事がなくなっていくということだ。著者はそのことを憂えている。
 教科書を読めない生徒がかなりの人数存在するという事実を、多くの教員などに認識してもらい、それをどうやって改善していったらいいのかみんなで考えてもらいたい、という活動を著者はしている。小学校から英語やプログラミングをなんて話が進んでいるけれど、その前にもっと大事なことがあるだろうと著者はいう。詳細は本書に譲るけれど、そうやって人間とAIがうまく共存できる世界をつくっていけるよう、皆が認識を新たにして努力していく道筋づくりを応援したい。

笑顔

 好きな芸能人とかいるの?とか訊かれて何人かの名前を挙げると、幸薄そうな人ばっかりだね、と言われたりする。
 それと関係があるのかどうかはわからないけれど、人物を描くときもちょっと愁いをおびた横顔を好んで描いてしまう。笑顔を絵にしようとはあまり考えたことがなくて、ほとんど描いてこなかった。
 でもどういう風の吹きまわしか、この絵だけはどうしても形に残しておきたかった。純粋な笑顔を画面いっぱいに引き伸ばして、ただこの表情を描いてみたかった。背景を描いてストーリー性を持たせようかとも思ったけれど、余計なことをしないで緑一色で塗りつぶした。
 逆説的だけれど、この満面の笑みを見ていると、逆に胸が締め付けられるように辛くなることもある。複雑な思いが頭をよぎったりもする。でも、この一瞬を永遠に固定する作業は、私が手を動かせる今のうちにやっておかなければ後悔すると思った。できあがった絵自体は特別な意味を持っているわけではないので、観る人それぞれが好きなように感じてくれればいいのだけれど。胡粉ジェッソにアクリルガッシュ。